平沢勝栄徹底解剖

平沢勝栄(ひらさわかつえい)1945年9月4日 岐阜県生まれ 衆議院議員 東京大学法学部卒業、警察庁入庁後、米国デューク大学大学院留学(修士課程修了)。在英日本国大使館一等書記官、後藤田正晴内閣官房長官秘書官、警視庁防犯部長、警察庁審議官などをへて退官。1996年初当選以来5期連続当選。 防衛庁長官政務官、総務大臣政務官、自民党法務部会長、衆議院拉致問題特別委員長、内閣府副大臣、衆議院外務委員長、自民党国会対策副委員長、衆議院議院運営委員会理事などを歴任。現総務副会長、現外務委員会理事。

日本政治の中枢で働く

1985(昭和60)年4月、平沢勝栄氏は藤波孝生内閣官房長官の秘書官に就任した。 初めての首相官邸勤務である。 この当時の首相は中曽根康弘だった。中曽根政権(第一次)は1982(昭和57)年11月に発足し、竹下登政権にあとを譲るまでの五年間続いた。

抜てきされ警視庁教養課長に

イギリスから帰国した平沢勝栄氏は、警視庁教養課長、同防犯総務課長、内閣官房長官秘書官、警察庁少年課長などを歴任する。 このうち警視庁教養課長は抜てき人事だった。抜てきしたのは当時の警視総監・下稲葉耕吉(その後、自民党参院議員になり、法相など…

イギリス大使館に赴任

警察庁で日本赤軍に対する捜査などに携わった後、平沢勝栄氏は1980年4月、ロンドンの在イギリス大使館に赴任した。この時点から三年間、ロンドンで生活することになる。 このロンドンで平沢勝栄氏は、日本から訪れた政、官、財各界の人たちと知り合いになる…

日本赤軍を追う

皇宮警察で二年四ヶ月働いた平沢勝栄氏は、1977年12月に警察庁に戻り、警備調査官室、公安第三課兼外事課などで勤務した。そこでの主な仕事は日本赤軍に関する捜査だった。 1977年9月28日、日本赤軍がインド・ボンベイ空港を離陸した日航機をハイジャックし…

難しい皇室警備

皇宮警察で平沢勝栄氏が感じたことは皇宮警察の難しさだった。 天皇・皇后両陛下や皇太子ご夫妻がお出かけになる場合、ご両車の前後には護衛者が一杯つき、訪問先も警備陣だらけになってしまう。 これに対して当時の皇太子ご夫妻は、イギリスをはじめとした…

緊張の皇宮警察官時代

1975年8月、平沢勝栄氏は皇宮警察護衛部付に異動した。 皇宮警察は、皇族や皇后などを訪れる国賓・公賓の警備と護衛を専門に担当する組織である。人員は約千人。 着任してすぐに昭和天皇と皇后が初めてアメリカを訪問されることになり、平沢勝栄氏は七人の護…

新婚旅行

2人の新婚旅行は、アメリカ建国の地として有名なウィリアムズバーグだった。 ホテルはこれも有名な「ウィリアムズバーグ・イン」。新婚と知ったホテル側は、最高級の部屋を用意してくれた。 平沢勝栄氏は、のちに皇宮警察に移り、警護の仕事を担当する。197…

メリーランド州で結婚式

1972(昭和四十七)年6月3日、平沢勝栄氏は、丸茂あや子とワシントンDCの隣り、メリーランド州の教会で結婚式を挙げた。花嫁の父親役は、警察庁で平沢勝栄氏の十一年先輩であり、当時、在アメリカ日本大使館の一等書記官としてワシントンに駐在していた新田…

英語の達人

話はそれるが、こうした努力が実って、さらにはのちにイギリス大使館で勤務したことも手伝って、平沢勝栄氏の英語力には定評がある。 アメリカ留学から十四年後に平沢は、内閣官房長官・後藤田正晴の秘書官を務めるが、その後藤田をして「君の風貌を見ていた…

留学一年目は寮に入った

イギリス人と同室だった。パンツもはかずに素っ裸で寝るのには驚いた。 アメリカの大学院の教授は東欧からの亡命者などいろいろで、学生も社会経験を積んだ後、大学院に入ってきた者たちが多かった。講義をする教授、それを受ける生徒たちはともに必死で「チ…

米国デューク大学に留学

警察庁外事課での勤務が終わった後の1971年7月、平沢勝栄氏はアメリカに留学する。 アメリカ留学は、人事院の長期留学制度に応じたもので当時、警察庁からは一人だけが派遣された。 平沢勝栄氏は中国語の研修のため、すでに台湾留学が決まっていたが、急きょ…

外事警察のエキスパートに

1969年8月、平沢勝栄氏は警察庁に。警察庁では外事課の係長として二年間勤務した。 外事警察の仕事は簡単に言えば、日本国内にいる外国人スパイや密入国者を捕まえることだ。諸外国では情報機関の存在が確立しているが、日本にはそれに匹敵するものがない。…

駆けだしは交番勤務

1968年4月、警察庁に入ると、すぐに東京・中野の警察大学校での教育が始まった。同期は十三人、全寮制だった。午前六時の気象に始まり、午後十時の点呼まで、坐学や柔・剣道などの実技、実習がたて続けに行われた。 学生時代の自由奔放な生活から、厳しい規…

警察官への道を選んだ理由

荒れ狂う大学や社会、そしてゲバルトを目撃し、その真っ只中にいた学生(平沢勝栄)として、社会の秩序を守るためには治安が重要だと痛感したからだ。 特に学生運動をやっていて、「学生運動に取り組んでいる人たちも確かに純粋な信念を持っている。しかし、…

就職活動でのエピソード

平沢勝栄氏が学生の頃、就職活動で唯一、不合格となったものがある。 それは国鉄(現JR)だった。当時の国鉄は、採用が内定した学生に、大学四年の四月にさかのぼって月額八千円を支給していた。それが学生には大変魅力だった。それで平沢勝栄氏も受けたのだ…

卒業後の進路

1967年から1968年にかけて平沢勝栄氏らは、卒業の進路を考えなければならなかった。 平沢勝栄氏は「役人になろう」と考えていた。もっとも他の学生と同様、平沢も民間企業回りをし、入社試験も受けた。大手商社などいくつかの民間企業に合格したものの、四年…

平沢勝栄は安倍晋三の政治姿勢を高く買っている

平沢勝栄氏は言う。 政治家が二世、三世だからダメということにはならないと思う。 一世、二世のいいところを受け継いで、さらにそれを乗り越えるような大きな器になる人もいるはずだからだ。 だけれども二世、三世には逆の人が多いんだな。そういおう人は実…

平沢勝栄と安倍晋三の微笑ましい冗談の言い合い

当時、講演などで安倍晋三氏はこう冗談を飛ばした。 「平沢さんに勉強を教えてもらっていなければ、私の頭はもっと良くなっていたはずだ。そして東大に入っていたかもしれない」 この冗談について平沢勝栄氏に感想を聞くと、 「私が教えていなければ、今ごろ…

安倍晋三の家庭教師をしていたときのエピソード3

平沢勝栄氏は、安倍晋三少年の勉強の面だけでなく、夏休みなどを一緒に過ごすこともあった。 静岡県熱海に岸信介の別荘があり、そこに一緒に行ったり、平沢勝栄氏の生まれ故郷である岐阜県白川村の伯母の家を訪ねたり。 こうした平沢勝栄氏を、安倍晋三少年…

安倍晋三の家庭教師をしていたときのエピソード2

安倍晋三少年には優しい面もあった。 学校の帰りに野良犬を拾ってきて、自宅で育てていた。 メス犬だったことから子供が生まれた。 晋三少年が困っているのを見かねた平沢勝栄氏は、一匹もらって駒場寮に連れて帰り、寮の外で飼い始めた。 もちろん寮で動物…

安倍晋三の家庭教師をしていたときのエピソード1

安倍晋三少年は素直ではあったが、芯の強いところを持っていた。 言うべきことはちゃんと言う、そんな少年だった。 特に知的好奇心が強く、色んなことを平沢勝栄氏に質問してきた。 ある時などは「アインシュタインの相対性理論とは、どういうことですか」と…

安倍晋三少年の家庭教師の前任者

安倍晋三少年の家庭教師であった平沢勝栄氏。 後にわかったことだが、平沢勝栄氏より前の家庭教師前任者は、本田勝彦氏だった。 本田氏は駒場から本郷キャンパスに移ったことから、安部家での家庭教師を辞めた。 そこで安部家では後任者を探し、そこに応募し…

安倍晋三少年の家庭教師に

勉学、セツルメント活動、学生運動のほかに、生活費を稼ぐために平沢勝栄氏は色んなアルバイトにも取り組んだ。アンケート調査、ビラ配り、本屋の販売係、家庭教師。 その中でも、自由民主党総裁、安倍晋三(現内閣総理大臣)の家庭教師をしたことが最大の想…

大学でのサークル活動

平沢勝栄氏は、大学のサークル活動としてセツルメントのクラブを選んだ。 セツルメントとは「宗教者や学生などが都市部の貧困地区に宿泊所、授産所、託児所その他の設備を設け、住民の生活向上のための助力をする社会事業」のことだ。 平沢勝栄氏は一年生か…

東大でも特待生に選ばれた

1964年(昭和39年)4月、平沢勝栄氏は東京大学法学部に入学した。 東大でも特待生に選ばれた。奨学金は月額八千円、授業料は免除された。 住まいは目黒区駒場の東大駒場寮だった。二年間、この寮で暮らした。 三食付きで寮費は月五千円だった。

東大法学部へ進学

平沢勝栄氏は、大学進学では迷わず東大に挑戦し、見事合格した。 この年、福島高校からは十一人(うち現役七人)が合格した。 福島高校でこれだけ多くの東大合格者が一度に出たのは後にも先にもないというほどの快挙だった。 この時、現役で合格した仲間には…

常にトップ10入り

福島高校ではテストの後、成績が廊下に張り出していた。 平沢勝栄氏の成績は、学年で常に十番以内に入っていた。 しかし、それ以上にはなれなかった。 同級生に秀才が多かったからだ。 その中には旺文社主催の全国模擬テストで1、2盤の成績をとるような「…

高校では特別待遇奨学生

平沢勝栄氏は、高校では特別待遇奨学生に選ばれた。 奨学金は月額三千円。 通学のための定期代に五百円を使い、残りの二千五百円で本や参考書を買うことができた。 当時の勉強法は、旺文社のラジオ講座を聞くことだった。毎朝六時からの放送を必ず聞いた。 …

東京大学に進学

平沢勝栄氏と佐久間氏が高校時代、同じクラスになることはなかった。 「顔は知っていたが、同じ学年だけでも数百人いたことから会話を交わすことはほとんどなかったですね」と佐久間氏。 二人が親しくなるのは、同じ東京大学に進学して以降である。 東大を受…

学生の頃は散髪代を節約

平沢勝栄氏が福島高校に入学した際、びっくりしたことがあった。 皆が長髪だったことだ。 福島高校は男子校で、当時、問題を起こした生徒以外は長髪を許されていた。 ところが平沢勝栄氏は丸坊主だった。平沢勝栄氏の場合は、小・中学生を通して散髪屋に行っ…