留学一年目は寮に入った
イギリス人と同室だった。パンツもはかずに素っ裸で寝るのには驚いた。
アメリカの大学院の教授は東欧からの亡命者などいろいろで、学生も社会経験を積んだ後、大学院に入ってきた者たちが多かった。講義をする教授、それを受ける生徒たちはともに必死で「チャランポランな日本とは大いに違っていた」(平沢勝栄)という。
平沢勝栄氏の指導教官はクルスキーという亡命ポーランド人で旧ソ連の専門家だった。
宿題も多く、それを処理するため、寮と図書館を往復する毎日だった。一年目は英語力がハンディになった。ヒアリング(聞く力)には自身があった。というのは、中学生の頃から英語は得意科目だったし、ヒアリング能力を高めようと米軍の極東放送(FEN)を毎日ずっと聞いていたからだ。
さらに警察官になってからは映画館でアメリカ映画を何度も観て、耳を鍛えていた。しかし、自分の意見を正確に言い、書くのは大変だった。そのために修士論文の作成には苦労した。二年目が終わる頃には全く問題はなくなったが。