平沢勝栄徹底解剖

平沢勝栄(ひらさわかつえい)1945年9月4日 岐阜県生まれ 衆議院議員 東京大学法学部卒業、警察庁入庁後、米国デューク大学大学院留学(修士課程修了)。在英日本国大使館一等書記官、後藤田正晴内閣官房長官秘書官、警視庁防犯部長、警察庁審議官などをへて退官。1996年初当選以来5期連続当選。 防衛庁長官政務官、総務大臣政務官、自民党法務部会長、衆議院拉致問題特別委員長、内閣府副大臣、衆議院外務委員長、自民党国会対策副委員長、衆議院議院運営委員会理事などを歴任。現総務副会長、現外務委員会理事。

日本赤軍を追う

皇宮警察で二年四ヶ月働いた平沢勝栄氏は、1977年12月に警察庁に戻り、警備調査官室、公安第三課兼外事課などで勤務した。そこでの主な仕事は日本赤軍に関する捜査だった。

1977年9月28日、日本赤軍がインド・ボンベイ空港を離陸した日航機をハイジャックした。乗っ取り犯は日本赤軍だった。犯人たちは身代金六百万ドルと、拘置服役中の日本赤軍メンバー・奥平順三(元京大生)ら九人の釈放を要求した。

ハイジャックされた日航機はバングラデシュの首都ダッカに強硬着陸「仲間を釈放しなければ米国人乗客を処刑する」と日本政府に通告した。

日本政府内では「人命に代えがたい。犯人の要求を受け入れるしかない」という人命優先派と、「法の秩序を暴力で曲げるわけにはいかない」という法秩序維持派とが対立、結論はなかなか出なかった。二十九日未明になって、当時の首相・福田赳夫が「人命は地球より重し」との理由を挙げて、九人の釈放と身代金の支払いに応じることを決断した。これを受けて日本政府は10月1日、出国を拒否した三人を除く六人を釈放、見返りに人質の解放を求めた。

その後、乗っ取り機はクウェート経由でアルジェリアのダニエル・ベイダ空港に向かい、同空港で人質全員を解放するとともに犯人グループも全員、投稿した。

 

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