日本赤軍を追う
皇宮警察で二年四ヶ月働いた平沢勝栄氏は、1977年12月に警察庁に戻り、警備調査官室、公安第三課兼外事課などで勤務した。そこでの主な仕事は日本赤軍に関する捜査だった。
1977年9月28日、日本赤軍がインド・ボンベイ空港を離陸した日航機をハイジャックした。乗っ取り犯は日本赤軍だった。犯人たちは身代金六百万ドルと、拘置服役中の日本赤軍メンバー・奥平順三(元京大生)ら九人の釈放を要求した。
ハイジャックされた日航機はバングラデシュの首都ダッカに強硬着陸「仲間を釈放しなければ米国人乗客を処刑する」と日本政府に通告した。
日本政府内では「人命に代えがたい。犯人の要求を受け入れるしかない」という人命優先派と、「法の秩序を暴力で曲げるわけにはいかない」という法秩序維持派とが対立、結論はなかなか出なかった。二十九日未明になって、当時の首相・福田赳夫が「人命は地球より重し」との理由を挙げて、九人の釈放と身代金の支払いに応じることを決断した。これを受けて日本政府は10月1日、出国を拒否した三人を除く六人を釈放、見返りに人質の解放を求めた。
その後、乗っ取り機はクウェート経由でアルジェリアのダニエル・ベイダ空港に向かい、同空港で人質全員を解放するとともに犯人グループも全員、投稿した。