2013-05-01から1ヶ月間の記事一覧
1985(昭和60)年4月、平沢勝栄氏は藤波孝生内閣官房長官の秘書官に就任した。 初めての首相官邸勤務である。 この当時の首相は中曽根康弘だった。中曽根政権(第一次)は1982(昭和57)年11月に発足し、竹下登政権にあとを譲るまでの五年間続いた。
イギリスから帰国した平沢勝栄氏は、警視庁教養課長、同防犯総務課長、内閣官房長官秘書官、警察庁少年課長などを歴任する。 このうち警視庁教養課長は抜てき人事だった。抜てきしたのは当時の警視総監・下稲葉耕吉(その後、自民党参院議員になり、法相など…
警察庁で日本赤軍に対する捜査などに携わった後、平沢勝栄氏は1980年4月、ロンドンの在イギリス大使館に赴任した。この時点から三年間、ロンドンで生活することになる。 このロンドンで平沢勝栄氏は、日本から訪れた政、官、財各界の人たちと知り合いになる…
皇宮警察で二年四ヶ月働いた平沢勝栄氏は、1977年12月に警察庁に戻り、警備調査官室、公安第三課兼外事課などで勤務した。そこでの主な仕事は日本赤軍に関する捜査だった。 1977年9月28日、日本赤軍がインド・ボンベイ空港を離陸した日航機をハイジャックし…
皇宮警察で平沢勝栄氏が感じたことは皇宮警察の難しさだった。 天皇・皇后両陛下や皇太子ご夫妻がお出かけになる場合、ご両車の前後には護衛者が一杯つき、訪問先も警備陣だらけになってしまう。 これに対して当時の皇太子ご夫妻は、イギリスをはじめとした…
1975年8月、平沢勝栄氏は皇宮警察護衛部付に異動した。 皇宮警察は、皇族や皇后などを訪れる国賓・公賓の警備と護衛を専門に担当する組織である。人員は約千人。 着任してすぐに昭和天皇と皇后が初めてアメリカを訪問されることになり、平沢勝栄氏は七人の護…
2人の新婚旅行は、アメリカ建国の地として有名なウィリアムズバーグだった。 ホテルはこれも有名な「ウィリアムズバーグ・イン」。新婚と知ったホテル側は、最高級の部屋を用意してくれた。 平沢勝栄氏は、のちに皇宮警察に移り、警護の仕事を担当する。197…
1972(昭和四十七)年6月3日、平沢勝栄氏は、丸茂あや子とワシントンDCの隣り、メリーランド州の教会で結婚式を挙げた。花嫁の父親役は、警察庁で平沢勝栄氏の十一年先輩であり、当時、在アメリカ日本大使館の一等書記官としてワシントンに駐在していた新田…
話はそれるが、こうした努力が実って、さらにはのちにイギリス大使館で勤務したことも手伝って、平沢勝栄氏の英語力には定評がある。 アメリカ留学から十四年後に平沢は、内閣官房長官・後藤田正晴の秘書官を務めるが、その後藤田をして「君の風貌を見ていた…
イギリス人と同室だった。パンツもはかずに素っ裸で寝るのには驚いた。 アメリカの大学院の教授は東欧からの亡命者などいろいろで、学生も社会経験を積んだ後、大学院に入ってきた者たちが多かった。講義をする教授、それを受ける生徒たちはともに必死で「チ…
警察庁外事課での勤務が終わった後の1971年7月、平沢勝栄氏はアメリカに留学する。 アメリカ留学は、人事院の長期留学制度に応じたもので当時、警察庁からは一人だけが派遣された。 平沢勝栄氏は中国語の研修のため、すでに台湾留学が決まっていたが、急きょ…
1969年8月、平沢勝栄氏は警察庁に。警察庁では外事課の係長として二年間勤務した。 外事警察の仕事は簡単に言えば、日本国内にいる外国人スパイや密入国者を捕まえることだ。諸外国では情報機関の存在が確立しているが、日本にはそれに匹敵するものがない。…
1968年4月、警察庁に入ると、すぐに東京・中野の警察大学校での教育が始まった。同期は十三人、全寮制だった。午前六時の気象に始まり、午後十時の点呼まで、坐学や柔・剣道などの実技、実習がたて続けに行われた。 学生時代の自由奔放な生活から、厳しい規…
荒れ狂う大学や社会、そしてゲバルトを目撃し、その真っ只中にいた学生(平沢勝栄)として、社会の秩序を守るためには治安が重要だと痛感したからだ。 特に学生運動をやっていて、「学生運動に取り組んでいる人たちも確かに純粋な信念を持っている。しかし、…