メリーランド州で結婚式
1972(昭和四十七)年6月3日、平沢勝栄氏は、丸茂あや子とワシントンDCの隣り、メリーランド州の教会で結婚式を挙げた。花嫁の父親役は、警察庁で平沢勝栄氏の十一年先輩であり、当時、在アメリカ日本大使館の一等書記官としてワシントンに駐在していた新田勇(元大阪府警本部長、元スリランカ大使、東芝顧問)が務めてくれた。
丸茂あや子と知り合ったのはアメリカ留学直前の1970年のことだった。
当時、平沢勝栄氏は英語力を磨くため「ジャパン・タイムズ」紙上で知った個人レッスンの教室(東京・練馬区)に通っていた。教師はトム・ジェンセンというアメリカ人で、あや子もそこの生徒だった。
あや子は1945年6月生まれ、平沢勝栄氏より三ヶ月年上である。東京・板橋区出身で、聖心女子大学を卒業した後、平沢勝栄氏と知り合った頃は、腎臓病で入退院を繰り返していた母親の看病に専念していた。
平沢勝栄氏はアメリカに出発する前に、あや子に、「せっかくの機会だから一緒にアメリカに行かないか」と誘った。平沢流のプロポーズである。しかし、あや子には母親の看病という大事な仕事があったため、一緒に行けるわけはなかった。
その後、1971年9月、看病のかいなく、あや子の母親は亡くなった。
傷心のあや子が、平沢勝栄氏のもとに向かったのは、それから三ヶ月がたった12月の暮れだった。
英語の達人
話はそれるが、こうした努力が実って、さらにはのちにイギリス大使館で勤務したことも手伝って、平沢勝栄氏の英語力には定評がある。
アメリカ留学から十四年後に平沢は、内閣官房長官・後藤田正晴の秘書官を務めるが、その後藤田をして「君の風貌を見ていたら、狸がくすぶられて出てきたような顔をしているのに、なんでそんなに英語の達人なんだ。おかしいじゃないか」と言わせたほどである。
さらに後藤田は、平沢勝栄氏の福島なまりの早口に触れながら、「俺は、英語は一番嫌いだが、君は日本語より英語の方がはっきりしているわ」と、よく冷やかしていたという。後藤田は、平沢の英語力を買って重要な役割を平沢勝栄氏に与えた。
どんあ役割かというと通訳の間違いチェックである。
官房長官のところには諸外国からの客が絶えない。その中には英語圏の国からの重要な客もいる。会談の席には、客の側が連れてきた通訳が同席するが、通訳が大事な点を言い忘れたり、手抜きをしたりするケースがある。それを嫌った後藤田は事前に、「平沢君。こういう人間に会うから通訳が間違ったら俺に耳打ちしてくれ」と平沢勝栄氏を同席させた。
留学一年目は寮に入った
イギリス人と同室だった。パンツもはかずに素っ裸で寝るのには驚いた。
アメリカの大学院の教授は東欧からの亡命者などいろいろで、学生も社会経験を積んだ後、大学院に入ってきた者たちが多かった。講義をする教授、それを受ける生徒たちはともに必死で「チャランポランな日本とは大いに違っていた」(平沢勝栄)という。
平沢勝栄氏の指導教官はクルスキーという亡命ポーランド人で旧ソ連の専門家だった。
宿題も多く、それを処理するため、寮と図書館を往復する毎日だった。一年目は英語力がハンディになった。ヒアリング(聞く力)には自身があった。というのは、中学生の頃から英語は得意科目だったし、ヒアリング能力を高めようと米軍の極東放送(FEN)を毎日ずっと聞いていたからだ。
さらに警察官になってからは映画館でアメリカ映画を何度も観て、耳を鍛えていた。しかし、自分の意見を正確に言い、書くのは大変だった。そのために修士論文の作成には苦労した。二年目が終わる頃には全く問題はなくなったが。
米国デューク大学に留学
警察庁外事課での勤務が終わった後の1971年7月、平沢勝栄氏はアメリカに留学する。
アメリカ留学は、人事院の長期留学制度に応じたもので当時、警察庁からは一人だけが派遣された。
平沢勝栄氏は中国語の研修のため、すでに台湾留学が決まっていたが、急きょ語学を中国語から英語に変えることになった。平沢勝栄氏はノースカロライナ州のデューク大学大学院(政治学)に入学した。
この制度では、授業料から交通費、滞在費まで国が出してくれる。一ドル三百六十円の時代に滞在費として月額で約四百ドルをもらった。アメリカの田舎でなら十分に快適な生活ができる金額だった。
一緒に留学した仲間に、通産省出身の小林興起や吉田威らがいた。
いくつかの大学に合格したが、デュー大学選んだ。日本人ができるだけ少ない大学を探した結果だった。受講科目も、選択は自由だったことから政治学を選び、二年間で修士課程を修了した。
外事警察のエキスパートに
1969年8月、平沢勝栄氏は警察庁に。警察庁では外事課の係長として二年間勤務した。
外事警察の仕事は簡単に言えば、日本国内にいる外国人スパイや密入国者を捕まえることだ。諸外国では情報機関の存在が確立しているが、日本にはそれに匹敵するものがない。そこで外事警察がそれを全部担当している。当時は東西冷戦時代である。最大のターゲットは旧ソ連で、その次が旧ソ連以外の共産主義国家である中国や北朝鮮だった。
外事課では、旧ソ連のKGBやGRUの手口などを研究。さらに在日大使館に勤務しているアメリカ、イギリス、フランス、西ドイツなどの情報機関員と週一回、密かに都内のホテルなどで会って情報・意見交換をしたり、連絡を取り合ったりした。
このように警察官としての平沢勝栄氏の本当の出発点は「外事警察」となったわけだ。このことは、その後の平沢の警察官としてのキャリアを決定づけていく。また、この頃から北朝鮮問題に強い関心を持ち始め、そのことがのちに北朝鮮による日本人拉致問題に深く関わるきっかけとなっていく。
駆けだしは交番勤務
1968年4月、警察庁に入ると、すぐに東京・中野の警察大学校での教育が始まった。同期は十三人、全寮制だった。午前六時の気象に始まり、午後十時の点呼まで、坐学や柔・剣道などの実技、実習がたて続けに行われた。
学生時代の自由奔放な生活から、厳しい規律・規則だらけの生活に変わった。苦痛の連続だった。警察官になるために必要なことだと思いながらも「こんな組織で本当にやっていけるのだろうか」と思ったことは一度や二度ではなかった。
軍隊生活のような研修は三ヶ月に及んだが、その中には三週間の交番実習が入っていた。配属された先は東京・渋谷区の繁華街・道玄坂にある宇田川交番だった。
初めて制服を着て、交番の前に立った。その時の感想は「うれしいとか期待で胸が弾むといったことよりも、警察官の装備はやたらと重いな」というものだった。