平沢勝栄徹底解剖

平沢勝栄(ひらさわかつえい)1945年9月4日 岐阜県生まれ 衆議院議員 東京大学法学部卒業、警察庁入庁後、米国デューク大学大学院留学(修士課程修了)。在英日本国大使館一等書記官、後藤田正晴内閣官房長官秘書官、警視庁防犯部長、警察庁審議官などをへて退官。1996年初当選以来5期連続当選。 防衛庁長官政務官、総務大臣政務官、自民党法務部会長、衆議院拉致問題特別委員長、内閣府副大臣、衆議院外務委員長、自民党国会対策副委員長、衆議院議院運営委員会理事などを歴任。現総務副会長、現外務委員会理事。

東京大学に進学

平沢勝栄氏と佐久間氏が高校時代、同じクラスになることはなかった。

「顔は知っていたが、同じ学年だけでも数百人いたことから会話を交わすことはほとんどなかったですね」と佐久間氏。

二人が親しくなるのは、同じ東京大学に進学して以降である。

東大を受験した時、平沢勝栄氏と佐久間氏は待ち合わをして、同じ列車で上京したという。

平沢勝栄氏はその後、東京大学に進むが、大学入学時も坊主頭だった。

平沢勝栄氏によると、東大駒場のクラス五十人中、坊主頭だったのは二人だけだった。

もう一人は、のちに弁護士から自民党衆院議員になった白川勝彦だったという。

学生の頃は散髪代を節約

平沢勝栄氏が福島高校に入学した際、びっくりしたことがあった。

皆が長髪だったことだ。

福島高校は男子校で、当時、問題を起こした生徒以外は長髪を許されていた。

ところが平沢勝栄氏は丸坊主だった。平沢勝栄氏の場合は、小・中学生を通して散髪屋に行ったことがなかった。散髪代を節約するために、いつも母親がバリカンでかってくれたからである。

子の頃のことを覚えている同級生の佐久間博(元住友銀行監査役、日本ナレッジサービス代表取締役)は、「彼だけはいがぐり坊主だった。その印象が強かったせいか、くそまじめな男というイメージしか残っていない」と回顧している。

当時の国鉄東北線は、まだ単線で、もちろん蒸気機関車の時代だった。

列車も一時間半に一本の割合でしかなかった。

二本松市から福島市までの所要時間は片道五十分以上もかかった。

各駅停車のうえ待ち合わせのために余計、時間がかかったのだ。

そのうえ歩く時間として三十分間がプラスされた。

普通の高校生なら、こんな「長時間通学」など嫌がるものだが、平沢勝栄氏の場合は違った。

行き帰りの列車内で過ごす時間や、駅の待合室での待ち時間を、勉強のために使ったのである。列車の中では行き帰りとも確実に座れたことが幸いした。

教科書や参考書を読みふけった。平沢勝栄氏にとっては貴重な時間だった。

こんな平沢勝栄氏の姿は、「すごい奴がいるぞ。汽車の中でひたすら教科書を読んでいる奴がいる」と、福島高校内でも話題になったほどだった。

福島高校に入学

1961年4月、平沢勝栄氏は福島市内にある福島県立福島高校に進学した。

地元には男女共学の県立安達高校があったが、大学への進学を希望していた平沢勝栄氏は、県内でも有数の進学校である福島高校を選んだ。

二本松市に住んでいた平沢勝栄氏にとって福島高校は学区外だったが、当時、福島県の方針で店員の五%だけは学区外からの入学を認めていた。この枠を利用したわけだ。平沢勝栄氏はなんなく合格した。

中学時代の平沢勝栄氏について

二本松市役所の総務部長席で斎藤は、中学時代の平沢勝栄氏について、「地元の新聞・福島民報社や福島民友社主催の学力テストでは、平沢勝栄君はいつも県内トップクラスの中に入っていた。素晴らしく勉強のできる男だった。でも中学生時代は静かな性格だった。今のようにテレビなどでポンポンと言葉が出てくるような男ではなかったんですけどね」と話してくれた。その変わりように驚いているようだった。

再開

二本松中学校時代の同級生で、当時二本松市総務部長を務めていた斎藤隆氏は、平沢が国会議員になったことを知らなかった。

1996年暮れ、陳情で衆院第一議員会館を回った時、たまたま平沢の部屋の前を通った。

ドアの表示を見て「平沢勝栄?もしや中学校の同級生の平沢君では」と思い、ドアを開けて確認したところ間違いないことが分かった。ちょうど平沢勝栄氏も部屋にいて思いがけない再会となった。

危機管理の勉強

渡邊先生は、平沢勝栄氏が警察官を経て政治家になた後、同窓会などで何度か平沢勝栄氏にあっている。

渡邊氏はその席で「警察官時代、米国に留学したり、英国の大使館に勤務しようとしたようだが、何を勉強してきたのか」と聞くと、平沢勝栄氏は「危機管理の勉強をしてきました」と答えたと言う。